Diary

日記といいつつ、あったことや思ったことを適当に書いていきます。

戦闘妖精

ばとるふぇありい・すのう‐うぃんど

雪風。それは、妖精の空を舞う風の精。誰にも追いつくことはできず、空舞う姿は美しい。しかしツンデレである。どのくらいツンデレかというと、一回など告白してきた自分の主人を敵地に放り出し自分だけ帰ってきたくせにその主人が戻ってきたら喜ぶ。いいとこの生まれで、育ての親が親だけに高飛車ったらありゃしない。気に入らないと主人の命令を無視して無茶をして、機嫌が悪いと放り出す。そのくせたまに混乱して主人に泣きつき、「私を信じろ」とまで言う。

あれ、雪風可愛すぎね?そんなことを思いつつ、戦闘妖精・雪風を、<改>からアンブロークンアローまで読んだ。

あらすじは、突如南極にゲートが現れ、そこからのちにジャムと呼ばれる異性体が現れ、それを撃退しゲートを通った先には未知の惑星が。そこに基地を作り、国連によって作られたFAF(フェアリィ空軍)が戦いを続けている・・・というものだ。

いいところを上げるときりがないし、悪いところを言うほど見つけてないし偉くない。

やっぱりいいと思ったところを上げていこう。

 

雪風

戦闘妖精・雪風におけるツンデレこと雪風は、戦闘機である。異性体と戦う最先端の戦闘機に乗せられた戦闘機械知生体、つまりコンピュータだ。

その設定がぼくのドストライクなのは言うまでもない。

主力制空戦闘機シルフィードの中でもわずか26機しか製造されていない改良型シルフィード、”スーパーシルフ”3番機、パーソナルネーム「雪風」。

あるいは、スーパーシルフの後継機、無人戦闘偵察機の有人改造型”メイヴ”。

「必ず情報を持ち帰る」の命令のもと、戦闘には一切参加せずに帰還する。そのためのエンジンと武装、パイロットは冷徹かつ冷酷であることが求められる。

雪風パイロットは深井零。過去にいろいろやらかしている、雪風を溺愛する男。ある時は効率が悪いと博物館のSLを爆破したことになっており、ある時はストレスから職場に放火したことになっている。また別のところでは強盗の手伝い、はたまたコンピュータクラッカーとして罪を犯したとも。なんだこいつは。

まず興奮するのは、戦闘描写にある。淡々とした零の視点で描かれながら、そのリアルな表現は読者を圧倒する。そして、ぼくのような人間を虜にするのがマニュアル描写なのだ。

だって、かっこいいじゃん!「了解。こちら雪風、402mリーダー、応答しろ。PAN,PAN,PAN、コードU,ユニフォーム、ユニフォーム」こういう描写が大好きなぼくは、本を開いて数ページで心をつかまれてしまった。

雪風が知性を持っていて、零に語りかけるのもいい。

<everything is ready/I don't lose/trust me…Lt.>曰く、「用意はいい、自分はまけない、私を信じろ、大尉」とのこと。

やっぱりぼくはこういうのがすきなんだなぁ。

 

雪風・零

突然だけど、雪風の由来は大日本帝国海軍駆逐艦雪風だ。16回以上の海戦に参加し、ほぼ無傷で帰ってきた幸運艦。しかし、雪風はこうも呼ばれていた。「死神」と。雪風の周りの艦は沈んでいく中、雪風だけが帰還する。もちろん真偽は定かではない。

劇中、FAFのほかの部隊のパイロットが雪風を見て「死神め」といった。無関係ではないのだろうか。

一方、パイロットはまさに「零」の名を与えられている。まぁ、こっちは何も言わなくてもいいだろう。タイプは違うけど。あっちは格闘艦上戦闘機でこっちは戦闘戦術電子偵察機だし。

 

SFとしての雪風

ネットなりOVAの動画なりで見てみると、戦闘シーンが分かりづらい、だのシステムアラートがなんだかわからないだの、ありがちと言えばありがちな評価が多い。

では、この人たちはなんで雪風を見たのだろう。たまたま見つけて気になった。神林長平のファン。SF好き。いろいろいるだろう。では。雪風に何を求めているのだろう。その職の人でなければほとんどシステムアラートなんか聞いたってわかりゃあしない。戦闘だって、ハイレベルになればなるほど、一般人には理解できないものになっていく。例えばスポーツ。例えば囲碁や将棋、チェスといったゲーム。いわゆる達人と呼ばれる人たちのやっていることを理解しようとしてもできることは少ない。

描写に、画に、それ以上の意味を求めてはいけないのだ。雰囲気や考察はいい。しかし、これがないからというのは筋違いだ。

つまりなにがいいたかというと、雪風は小説もOVAもいい。あと零が堺雅人さんなのも意外だったけど結構いい、ということ。

はてな?

はてなに書き残すこと

日記、というものはよく三日坊主で終わってしまうように、続ける、というのが難しい。すくなくとも僕にとっては。小学校や中学校では担任に提出する日記(のようなもの)は大体適当だったし、書いていない日の方が多かった。高校生になってだいぶたった今でも、ほとんど書いていない。

そんな中で、ぼくは一冊の本に出合ったのだ。いや、一人の作家に。

 

名前は、伊藤計劃

 

34歳でこの世を去った、長編小説わずかに3冊のSF作家だ。ぼくが伊藤計劃という名前に出会ったのは、とあるゲームの中。エンドロールにその名前があった。

そうして、ぼくは伊藤計劃に、「虐殺器官」に出会った。

伊藤計劃の作品を読んでいけばいくほど引き込まれる、というのはきっとぼくのかんがえが未熟で、ほかの人からはばかばかしく思えるかもしれない。でも、ぼくはあの人が好きなのだ。

そんな伊藤計劃のブログをまとめた「伊藤計劃:第弐位相」という本がある。ぼくは、それを読んで感動してしまった。

文に、ことばに、語り方に。そうして何回も読んでいるうちに、自分が明日死んで、この世に残っているものが果たしてどれだけあるだろうか、と思うようになった。きっと数は多くない。だったら、日記を書こう。ぼくがどんなことを思って、感じたかを綴ろう。たとえこの広大な電子の海に揉まれ消え去る数バイトのコードの羅列でも、もしかしたら、誰かが気に留めてくれるかもしれない。

ぼくが日記を書くのは、誰かのためや有名になりたいからじゃない。そう断っておこう。ぼくはぼくのために日記を書く。

 

ひとつ断っておくと

 

ぼくは病気でもないし、危険な仕事をしているわけでもない。明日死ぬかも、というのは確率的にとっても低いだろうし、死にたくないのは確かだ。

そういうわけで、これから時間の空いているときは、日記を書いていこうと思うのでよろしく。