Diary

日記といいつつ、あったことや思ったことを適当に書いていきます。

個別としての複合体

人工知能

とは、何か。広義でいうならば、チェスや囲碁からディープラーニングニューラルネットワークまで様々だ。ではここで、「人工知能は人間を超えるか」という命題に対して、NOと断言した文章が目の前に存在するとしよう。AIは意味や意識を理解せず、AIは人間の補助装置としてしかありえない。人類を超えることはない、と書いてある。本当にそうだろうか?

文章が書かれたのがいつかは知らないが、いまや世界を覆うインターネットに存在しないものは無い。というのは過言かもしれないが、おそらくほぼ全てがそこに存在するだろう。

 

なにがいいたいかというと、だ。人工知能は幾らでもヒトを超える可能性を秘めているのだ。ぼくは人類が人工知能に支配されるか、とか、理解がどうの、という話に興味はない。いや、正直言うとないわけではないけれど、それを盾に人工知能の可能性を全て否定されたのが気に食わなかったのだ。

 

人工知能はSF?

つまるところぼくはSFの使徒で、ぼくが今まで触れてきた世界は概ねコンピュータとネットワークがあったから。今時、恋愛モノだろうが学園モノだろうが能力モノだろうが端末という物はある。強いて言うなら異世界モノと時代モノくらいか。

 

サイバーパンク攻殻、MGS、伊藤計劃作品、あるいはトム・クランシー・・・高度にネットワーク化された作品は数あれど、携帯やPC、インターネット、テレビ、ラジオ・・・機器が存在しない作品、というのは今のところあまり見た事がない。

 

機器とはすなわち人類のツールとして存在していて、決してSFの存在ではないのだ。

 

ではなぜ、人類と人工知能の話を切り出すと、SFになってしまうのか。

 

それは、SFの文化的根本にある。

 

SFとは

サブカルチャーである。決してメインカルチャーになることはない。それは、インターネットというものが若い存在だからである。今の政治家世代に、インターネットに触れて育ってきた人物が一体どれだけいるだろうか。インターネットと共に育ってきた人間は、ネットを外部記憶装置や身体の一部とも言える認識を持っている。

いわばイメージの話なのだ、文化とは。

アニメに触れて育っていけばアニメをリアルに考える。推理小説なら、時代劇なら、ドラマなら、映画なら、ゲームなら、戦争なら、働く親父なら、騎士なら、農民なら、貴族なら。そうやって醸成される文化の中に、インターネットはギリギリまだ若い。

だから、AIとはSFなのだ。

やがて、人類と触れる時間が10年、20年と増えていけばあるのが当たり前、つまり文化になっていくことだろう。

 

個としての複合体

今の社会はまさに、個としての複合体。スタンド・アローン・コンプレックス。

タピオカの風刺画で集中攻撃された女性。攻撃者と擁護者。あるいは政治問題、それどころか政治家、タレントや芸能人本人に自分の意見をぶつける。それが出来る社会。喜ぶべきか、悩ましい。

ネット上では容易に賛同者が見つかる。同様に、敵対者も。オリジナルと考えていても模倣であることもあるし、模倣と思っていたらオリジナルということもある。全てが二律背反。あらゆる可能性が混在する、混沌にして可能性の集積。それがインターネットだ。

複合体の末端の個であり、個の集合としての複合体。自覚なき複合は、集合的無意識であり無意識的集合。

 

「すべてが、同じ色に染まっていく」

 

AIの進化は、人類が今までたどってきた進化と全く別の進化になるだろう。だが、これからの人類の進化は、あるいは・・・