お久しぶりです
毎回
お久しぶりですと言っているような気がするけれど、ぼくは元気です。だいたい一年ぶりですが、割と激動の1年をすごしていました。
部活動は無事インターハイに出場でき、キャプテンとしての3年間の結実が成ったと一安心。
辛いとこ苦しいことたくさんあったけど、終われたことにほっとしています。
もちろん、自分の中で過去になった瞬間に思い出補正がかかっている部分はありますが、それを理解できているうちは大丈夫だとおもいます。
大学受験ですが、推薦ですが第1志望に合格出来ました。あとは、センター試験でスカラシップに向けてがんばるのみ。
久しぶりに書いたのは
伊藤計劃さんのブログやインタビューをまとめた伊藤計劃記録Ⅱを読んでいて、すごく印象に残った文があったので思うところを書こうと思った次第。口調はランダム。
人は自らの物語を残すため、子を育てる。
というより、人間は物語としてしか子に自らを遺すことはできない。何故なら、人間は物語でできているからだ。
作家・伊藤計劃は語る。人とは物語であると。人が子を成すのはそのためであると。
であるならば、それは創作者のほとんどに当てはまる。
音楽家、画家、彫刻家、もっと踏み込むなら刀匠やゲームなどの作品を作るクリエイターに言えることだろう。
では、いったい何のために「意識」は必要なのだろうか。
それは物語を紡ぐためだ。
「意識受動仮説」の元に伊藤さんは論を組み立てていく。
魂が存在するのは、物語を紡ぐためだと。
人間の脳は、現実を物語として語り直すために存在するのだと。
フィクションを作り、語る。それに命を懸けた伊藤計劃さんの言葉だけに、重い。
夭折の作家は、何を残したのか。
その問いは、受け取り手によることであるが故に、答えさえも受け取り手の数ほどあるのだ。
彼の言葉を借りるならば、物語として誰かの中に宿っている。
これを読んだあと、テレビを見たりTwitterを見ると、なかなか考えさせられるのだ。
意味の無い(かもしれない)つぶやき達の中に、そこに意味を見出すこと。
アーティスト達、俳優、脚本家。何かを作り出す人達の結晶。
それを考えると、ぼくは考え込むと同時にどこか物悲しくなってしまうのだ。
なぜかはまだわからない。でも、たぶん寂しさではなく哀しさなんだろう。