Diary

日記といいつつ、あったことや思ったことを適当に書いていきます。

冥福、とは

思い出と記憶と記録

我々が死者に安らかであれ、と願うのは何故だろうか。

それは死者の眠りが往々にして安らかではないからだ。 

 作家・伊藤計劃は綴る。死者は、その経験不可能性によって私たちを支配する。

そういえば、「屍者の帝国」で生命についてこうも言っていた。

 「性交渉によって感染する、致死性の病」

ぼくたちは死に向かっていきながら、死を経験することもなく身近に感じることすら少ないのだ。 ぼくは幼いころに家族を立て続けに亡くした。

だからだろうか、ずっとこう考えている。死がとても怖い。でも、神様も仏さまも救いの手なんか差し伸べてくれない。あの世なんかない。死んだらそこで終わりだ。輪廻転生も、天国も地獄も、楽園もない。

あるいはそう信じたいだけなのかもしれない。ただの自分を肉の塊だと認めるのが嫌なだけなのかもしれない。

だから、ぼくは冥土なんて言葉は信じないし、死者は記憶と記録の中にしかいない、眠ることさえないと思っている。これはすこし攻撃的に過ぎるかもしれないけれど。

 

人が死んだとき、この世界から去って行ってしまったとき、それを痛みと悼みとして思い出すとき、ぼくはなんといえばいいだろうか。ずっと悩んでいた。訃報を耳にするのは家族だけではない。俳優、作家、アーティスト・・・たぶんぼくはいつも、こういってきた。

「ありがとうございました」

あなたが演じた物語は、あなたが創った物語は、あなたが紡いだ歌は、あなたが描いた絵は、あなたたちがぼくにくれた物語は、ぼくをつくる一部になっています。あなたたちがくれた世界は、ぼくの世界を彩ってくれています。

あなたたちが見せてくれた世界が、私を幸福にしてくれています。

そして、こう考えてもいる。

過去形で語ることはできるだけしたくない。だって、その人は逝ってしまっても、その人の言葉は過去で、行動は跡しか残っていないとしても、物語は、いまもあるのだから。

 

だから、マイディーさん、どうもありがとうございました。

インターネット上の世界、エオルゼアと現実をつなぐ架け橋として、あなたが作ってくれた物語はあります。本当に、ありがとうございました。