物語
ぼくの悪癖
ぼくは、どうも物語性を思い起こす悪い癖があるようなのだ。
それは、MGSのミーム的な話やある種のファンタシーの話ではなく、もっと身近な、ひとつのツイート、ひとつのアニメ、ひとつのキャラクターにそれを見出してしまうということだ。
たとえば、この前はRELEASE THE SPACEの一幕に。
ランボーに、フレディ・マーキュリーに、あるいは国会答弁に、ニュースの記事に。鴨居つばめに、半蔵門雪に、時には物に。
世間一般でいうところの重く受け止めて考え込むタイプではあるのだけれど、そう言われると違うような気がする。
言葉にしようとすると難しいのだけれど、なんというか…その…それについて深く考えることは考えるのだけれど、受け止めている訳では無い、と思う。
つまり、ぼくは考えはしてもそれがどうした、俺には関係ないと初期の深井零のような気持ちで見ている。
ところが、不思議なことにその余波をもろに受けるのだ。まさにランボー、リリスパを見た時のように。
何が違う、と言われると自分でも同じように感じているのだけれど。
うーん、自分でもよくわからない。
今日はここまでにしておこう。
あまりまとまっていないことをつらつら書いても意味がないからね。
鬱なときはいいけれど、普通の時にやってもあまり意味は無い…んじゃないかな。
ランボー・乱暴・Rambo
ジョン・R・ランボー
ランボー。それは破壊とワンマンアーミーの代名詞。シルヴェスター・スタローンのロッキーに次ぐヒット作。
ネタバレ注意。
ぼくは2作目の怒りの脱出がいちばん好きだ。ストーリーはいつも通りのランボー。ベトナムに単独潜入、捕虜の確認をして帰ってくる。
そういったところの指揮官にろくな奴がいるはずもなく、敵地に置き去りにされ拷問を受けるランボー。
通信を強いられ大佐の反応から基地司令の犯行に気づき殺害予告を無線機越しに話すランボー。
次の瞬間マイクスタンドで敵を殴りつけ脱出するランボー。
協力者とのラブロマンスもつかの間死亡フラグを立てまくりランボーブチ切れ。
そこからのゲリラ戦はシリーズ最高傑作と言っても過言ではないだろう。
ベトナムを生き抜いたランボーの真骨頂、泥の中から暗殺したり弓でヘリを落としたり、軟着陸したヘリのコクピットで死んだフリをして近づいてきた間抜けに向かって携行ロケットランチャーをぶっぱなす。
痛快とはこのことである。
死んだ愛する人のアオザイをバンダナに、首にはお守り。弓と矢を背負いナイフ片手にジャングルを駆けるランボーは、まさに80年代の戦争映画を象徴する筋肉。いや、ランボー。
スタローンの肉体美は3作目の怒りのアフガンで完成された(ランボーシリーズでは)と思うのだけれど、脱出でもあの筋肉は凄まじかった。
具体的に言うと、部活を引退して身体が(わりと)だらけてきたぼくが筋トレを決意するくらいにすごかった。
今季の「うちのメイドがウザすぎる!」での鴨居つばめの筋肉もそうだけれど、どうもぼくは筋肉にフェティシュがあるようだ。
で、スタローンの筋肉、どうもぼくのどストライクのようで、シュワルツェネッガーやジェイソン・ステイサムとはどこか違うように思う。
たぶんくびれだ。スタローン、上体と下半身の筋肉のつき方が理想的なのだけれど、寸胴ではないのだ。そこがいいのだろう。何を言っているんだ俺は。
ちなみに今年、トゥームレイダーの新作ゲームがでたのだが、もろ怒りの脱出だった。
タンクトップの弓と矢を背負ったコンバットナイフを持つララ・クロフト。
体に泥を塗り泥壁からナイフを刺すララ・クロフト。
ノーマルの矢や爆発する矢でヘリや兵士を殺戮するララ・クロフト。
女版ランボーとはよく言ったものである。
眠くなってきたので今日はここまで。明日は終業式だし、また違った内容の興味深いお題を思いついたのでそっちで。
リリスパ
最近アニメを見ることが増えた
というわけで、増えたと言ってもまだまだ見ていないので少しづつ見ていくことにする。
いまのところは映画とアニメを6:4くらいで消化中。
ぬーさんは響の頃からファンで、アルペジオのタカオとかリリスパの雪、ウザメイのつばめ等々・・・最近は、アイマスのキャラや歌以外で声を聞くことも増えたので少し嬉しい。
この前CDを出したのだけれども、なにぶん受験生なもので買いに行くお金や時間がない。だが欲しい。しかしセンターが。
ソラサキ応答なし
なんだこれは。全く予想を裏切る展開だった。
あ、ネタバレ注意です。
沖縄編や雪の回想シーンで仄めかされたスパイスの効果時間についての伏線かと思っていたものがなんの意味も持たずに使い潰されていた(少なくとも現段階では)。
スパイスの効果時間が短くなるというのが雪のスパイス二重がけのためのものだとしたらカトリーナが言う必要が無い。なんだこの違和感は。
沖縄編とソラサキ応答なしのつながりを考えるとひとつの共通点が浮かんでくる。
沖縄に来たメンバーとソラサキ待機メンバー。
雪、もも、五恵、楓。
彼女たち4人は、沖縄に行ったメンバーであり明確な"終わり"が描写されている。
雪は師匠の長穂と同じように弟子を守って胸を袈裟斬りされ戦闘不能。
もも、五恵、楓はモウリョウに拉致された。
カトリーナ、初芽、命。
彼女たち3人は、ソラサキ待機メンバーであり生死不明。いや、行方不明。
カトリーナは店を爆破されたものの店にいる様子や巻き込まれた様子は見受けられない。
初芽は海に投げ込まれ爆弾を投げ込まれたものの死体が浮いて来ていない。木っ端微塵になったとしても何らかの肉片や服の切れ端は浮いてくるはずである。
命は言うまでもない。
個人的にはダブルクロスであって欲しいけれど、なにぶん脚本がゆゆゆのタカヒロ氏だったりするので虚淵玄や奈須きのこ並に信用がならない。ちなみに裏切り者のシルエットの獲物は刀に見えたがどうなんだろうか。
雪は死んだと言われているが雪の師匠である長穂のように自爆した訳ではないし、二重スパイスの副作用とか諸々気になるので生きていると思いたい。というか生きていてもらわなければ困る。推しがピンチ。
さて、ある意味でこの考察が無駄になって欲しいと考えるのが活字中毒の性である。
伏線とか考察とは
こうやって推理小説の犯人を推測したり、わずかな情報から先を予測するのは楽しいことでもある。
だが、あまりにもそれをしすぎた結果かつてはそうやって答えを当てることに喜びを見いだしていたぼくはいつしかある種の退屈さを覚えてしまったのだ。
映画で次を予測できるシナリオほど面白くないように(インデペンデンス・デイやランボーといった王道、ボヘミアン・ラプソディのような実際の人物をモデルにしたものとは違う)、それを意図的に配置したのなら全く構わないのだが、それを大真面目にやっているのが果てしなく退屈なのだ。
リリスパに限って言うなら、最初のももの「相手を舐めることにより心理状態や体のコンディションがわかる」能力は確実に捜査に関わるだろうし、なんなら確実に多くの人がブチャラティかよと思ったはずである。
雪の死亡フラグ乱立は別にしても、登場した時から雪が醸し出していた雰囲気。それは、巴マミや日曜朝のプリがキュアキュア系のアニメにおける先輩キャラが出すものだ。
そして、展開(と言えばそれで終わりになってしまうが)通りに進んでいく。
であるならば、この先の展開はある程度多くの人が予想し得るものでありうる。
鬱。
そんなわけで鬱だ。勉強が手につかない。
ということで同じく今期の沼倉愛美アニメ(ではない)であるウザメイを見た。
なんだこれは。
ロリぺドのメイドがロシアロリに襲いかかりながら世話をするというなんともアホみたいな設定だが、なるほどギャグの割に面白い。というかメイドのつばめもロリのミーシャも過去が重い。
この辺はまぁまた今度語ることにする。とりあえず今はリリスパショックを生き残るだけで精一杯だ。マミさんの時でもこうはならなかった。なぜだ。
幸福度
ドキュメンタリー
というものは、なんのために放送されるのだろうか。
事実、ノンフィクション。記録実録を伝えるため?残すため?
面白そうな命題、夜のTV番組における意義なんて考えてみるのもいいのだけれど、それはさておいて、少し考えさせられるドキュメンタリーを見たので久しぶりに。
余命宣告
生命の終わりにはいくつかの選択肢がある。
終わるとわかっていて終わる死、ある時突然にふりかかり終わる死、誰かによってもたらされ終わる死、そして自分で終わらせる死。
今回見たのは余命半年と宣告された方のドキュメンタリーだったのだけれど、ぼくはそれを見てある台詞を思い出していた。
それは、スペースオペラ「銀河英雄伝説」に出てくるナイトハルト・ミュラーが同じく銀河英雄伝説のユリアン・ミンツに語った言葉である。
念の為、ネタバレ注意!
それは、不敗の名将ヤン・ウェンリーが暗殺者の凶弾に倒れてから一年後、宇宙暦801年新帝国暦3年のことである。
皇帝ラインハルト不予の報を受け講和に至ったローエングラム朝銀河帝国とイゼルローン共和政府。
皇帝が最早長くないことを医師に告げられたミュラーはユリアンにこう言った。
「ヘル・ミンツ、卿と私とは、どちらが幸福なのだろうか。卿らはヤン・ウェンリー元帥が亡くなるまで、そのことを知らなかった。吾々は、陛下が亡くなるについて、心の準備をする期間をあたえられた。
だが、卿らは哀しみがスタート地点から始まったのに、吾々はまずゴールを迎えて、それからまた心の飢えをみたすために出発しなくてはならない。生き残った者は・・・」
あえて述語を省略したミュラーの心は、ユリアンの心に共鳴現象を生じた。そうだ、生き残った者にとって、旅は続く。
いつか死者たちと合流する日まで。飛ぶことを許されず、その日まで歩きつづけなくてはならないのだ。
ぼくには母がいない。物心つくかつかないかの頃に、癌で亡くした。
声も、顔も、温もりも思い出せない母の、癌による死。
いつも、おぼろげな記憶の靄の奥に、もっと生きたいと泣いていた母の姿がうっすらと見える。
ぼくの記憶は音声ではなく、文字と絵によって残されている。頭の中に、こんなことを言っていた、というだけの記憶。
この前、伊藤計劃さんの文章を引用してフィクションを残すことの意味を書いたと思うのだけれど、きっとそれと似たようなことなのだろう。
名前も知らないだれかの、記憶の片隅にでも残りたい。そう叫んでいるのではないか。
ドキュメンタリーを見る度にぼくはそう思ってしまう。
全くそういう意思はないにしても。
ボヘミアン・ラプソディで描かれたフレディ・マーキュリーの伝説。
アイルトン・セナで語られるセナの葛藤。
This is ITで映されるマイケル・ジャクソンの歌声。
本人が作ったものではなくとも、本人が記憶に残り、記録に残り続ける。
ドキュメンタリーとは記録を記憶に残すためのツールである。
ぼくは、フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックを見た時、思わず声を出して感嘆してしまった。
残されるべき誰かの物語を語る。それがドキュメンタリーの意義だ。
ぼくは、そう思う。
QUEEN
最近、QUEENにどハマりしている。というのも、父がボヘミアン・ラプソディの影響でCDやらライブ映像やらを大量に垂れ流しているからで、ぼくの耳にもそれが入ってきてしまったからだ。
一方、ぼくはアイドルマスターが大好きなのだけれど、なかでも響(cv:沼倉愛美)が大好きなもので、ソシャゲのイベントを見返していた。そんな中に、アイドルとして初心を思い出すという場面があった。
アイドルになったのは、ファンに楽しさを、嬉しさを、元気を、感動を届けるため。手段と目的の逆転に気づいた。そんな話だった。
その中で、伝説を目指して・・・というセリフがあったのだけれども、アイドルとしての伝説とは一体なんだろうか、と考えた時に、ひとつの最適解が思い浮かんだ。
伝説。それこそが、QUEEN。
85年のリオ、そしてウェンブリー。
全世界を揺るがす偶像としてのQUEENは、まさに彼女たちが目指すアイドルの形。
会場と一体になったRADIO GA GAやWe will rock youの迫力。
フレディ・マーキュリーのパフォーマンスは、30余年の時を超えボヘミアン・ラプソディのタイトルの元に再び脚光を浴びる。
これこそが、最高到達点ではないだろうか。
世界中に歌とパフォーマンスを届け、新しいことに挑戦し続け、死後も語り継がれる。
We will rock youを聞いた事がない人が果たしてどれだけいるだろうか。
We are the Championの旋律を聞いたことの無い人がどれだけいるだろうか。
ボヘミアン・ラプソディの公開により、さらにその伝説は不動のものとなる。
プライベート・ライアンやブラックホーク・ダウンが21世紀の戦争映画を規定したように。
インディ・ジョーンズや007、ターミネーターやHalloweenが不朽の名作として語り継がれるように。
音楽CDや映画は、YouTubeや誰かの持つデータドライヴにあるよりもパブリックなメディアとして世に残り続ける。
もしも、彼女たちがその域にたどり着いたら、ぼくはきっとこう言うだろう。
「アイドルって凄いんだよ」
お久しぶりです
毎回
お久しぶりですと言っているような気がするけれど、ぼくは元気です。だいたい一年ぶりですが、割と激動の1年をすごしていました。
部活動は無事インターハイに出場でき、キャプテンとしての3年間の結実が成ったと一安心。
辛いとこ苦しいことたくさんあったけど、終われたことにほっとしています。
もちろん、自分の中で過去になった瞬間に思い出補正がかかっている部分はありますが、それを理解できているうちは大丈夫だとおもいます。
大学受験ですが、推薦ですが第1志望に合格出来ました。あとは、センター試験でスカラシップに向けてがんばるのみ。
久しぶりに書いたのは
伊藤計劃さんのブログやインタビューをまとめた伊藤計劃記録Ⅱを読んでいて、すごく印象に残った文があったので思うところを書こうと思った次第。口調はランダム。
人は自らの物語を残すため、子を育てる。
というより、人間は物語としてしか子に自らを遺すことはできない。何故なら、人間は物語でできているからだ。
作家・伊藤計劃は語る。人とは物語であると。人が子を成すのはそのためであると。
であるならば、それは創作者のほとんどに当てはまる。
音楽家、画家、彫刻家、もっと踏み込むなら刀匠やゲームなどの作品を作るクリエイターに言えることだろう。
では、いったい何のために「意識」は必要なのだろうか。
それは物語を紡ぐためだ。
「意識受動仮説」の元に伊藤さんは論を組み立てていく。
魂が存在するのは、物語を紡ぐためだと。
人間の脳は、現実を物語として語り直すために存在するのだと。
フィクションを作り、語る。それに命を懸けた伊藤計劃さんの言葉だけに、重い。
夭折の作家は、何を残したのか。
その問いは、受け取り手によることであるが故に、答えさえも受け取り手の数ほどあるのだ。
彼の言葉を借りるならば、物語として誰かの中に宿っている。
これを読んだあと、テレビを見たりTwitterを見ると、なかなか考えさせられるのだ。
意味の無い(かもしれない)つぶやき達の中に、そこに意味を見出すこと。
アーティスト達、俳優、脚本家。何かを作り出す人達の結晶。
それを考えると、ぼくは考え込むと同時にどこか物悲しくなってしまうのだ。
なぜかはまだわからない。でも、たぶん寂しさではなく哀しさなんだろう。
栄華と繁栄
喧騒と静寂の世界に
彼らが目を覚ましたとき、世界を救った英雄は誰だったのだろうか。
Fate/Grand Order
におけるカルデアとマスターの繁栄とはすなわち、数多のサーヴァントと契約し七つの特異点と魔神撃破による人理焼却の阻止、すなわち人理修復(Grand Order)完遂とそれに付随する4つの亜種特異点・並行世界にある魔神柱と剪定事象の対処完遂である。それを行ったという結果こそが彼らの繁栄と実績を保証する。
どんなに辛い出来事が起ころうと、絶望に突き落とされようと、そこには希望があった。数々の、自分たちに手を貸してくれた英霊がいた。
第一部、人理修復と特異点群のいわばお祭り騒ぎのような喧騒はしかし、第二部の序章にはない。
ネタバレ注意!
一応、ネタバレをいうつもりは無いのだけれど、気づかないうちになっていたら困るので念の為。
12月26日
人理修復から1年、亜種特異点も攻略し楽しいクリスマスも終わり、目が覚めると静かなカルデア。いつもと違う、痛いくらいの静寂が支配する。レオナルド・ダ・ヴィンチに話を聞きに行くと、カルデアの総入れ替えによってサーヴァントたちは退去、職員も栄転。翌日に姿を現す新所長と謎の人物、そしてエセ神父言峰綺礼。
独房に拘束される主人公。中には共にレオナルド、後輩マシュ、そして職員が1人。それ以外の登場人物といえば、上にあげた新所長率いる者達とカルデア職員数名、フォウくんとあと一人なものだ。
第一部とは対照的に、徹底的に序章はカルデア内、閉ざされた空間で描かれる。変わらない登場人物、諦観にも似た雰囲気が支配するカルデア。そこに、今までのような希望はなかった。不安はあっても、諦めはあっても。
バトルもない。ただ淡々と進む話に取り残される主人公。そして突きつけられる"戦うことのなかったマスターたち"の物語。当然だ。彼らは昏睡し、主人公は生きて戦い抜いた。それだけのことだ。しかし、主人公は割り切ることは出来ないだろう。ぼくたちがどう思うかに関係なく、シナリオに沿って反応する。やがて物語は進み、結果論としてカルデアは重罪人となる。第一部の人理修復が違法だったから。数々のサーヴァントと契約したこと。過去改竄を可能とする許可が降りなければ行ってはいけない禁忌レイシフトを多用したこと。救われた人間達はしかし、救世主を崇めたりはしなかった。当然だ。自分たちより下にいる(見ていた)人間が想像を超える偉業を成し遂げたことを認めるより、その結果を見てこんなことをしたんだと見つける方がよっぽどプライドが傷つかない。この話は、ぼくらが考えていたカルデアの、主人公の物語を根本から揺るがすだけでなく、いやおうなく現在のぼくらの社会制度を照らし出す。
結局のところ
実力主義だの給料だのブラック企業ホワイト企業なんて言っておきながら、人は物事の一側面しか見ない。結果がこれだ。カルデアに、人理修復に寄り添ってきたぼくらは世界を救うためにと戦い、そして共に戦ったからこそサーヴァントたちと絆を結び、楽しい日々を過ごした。しかしそれは、自制をと規律の遵守をその第一要件とする魔術社会にあって禁忌であり、それの容認は法治主義の現代社会において戦争だから、超法規的措置だと国家総動員を、弾圧を行う行為と何ら変わりない。
一方魔術協会側は、法令と規則に囚われるあまり人理焼却の事実を認めはしても修復を成し遂げたカルデアをもはや恐怖や弾圧の対象として扱う。かつてのジャンヌ・ダルクや源義経を排斥したフランス、源頼朝と何が違うのだろうか。
双方に非はあれど、ぼくらは人理修復を成し遂げた故にカルデアに思い入れが深く、だからこそ彼らのやり方に怒りを覚える。
とにかく
嫌な物語なのだ。序章は。嫌、というか「嫌な予感」が覆っているというか。何故それが予感なのかというと、それはぼく達現実にとっても未来は、到来する世界は予感としてしか接することが出来ない、経験することが出来ないからだ。
クリアで貰える概念礼装、Lost room。暗く静かなカルデアに一人、クリスマスの名残、サンタの帽子を手に佇むマシュ。ここからもすでに、それは漂い始めている。これがなんなのか、ぼくはまだわからない。ただ、嫌な予感がすることだけはわかる。
書き終わってみると、これ、全部書いてるからモロネタバレじゃーん。あ、でも彼の名前だけは出してないからいいか。
修学旅行に行ってまいりました
お久しぶりです
およそ一年ぶりです。何をしていたのかといえば特に何かをしていたわけではないのですが、そういえば、と更新してみることにしました。
ベトナムって
すごいです。史跡入ったらぶっ壊れた戦車の残骸置いてある。博物館にある戦闘機とか戦車触れる。やばい。ぼくの興奮度がやばい。なんてったって戦車。戦闘機。ヘリ。米軍の兵器。やばい。よく女子高生がやばーいとかいってるが(いつの話?)あれはほんとにやばい。感想が出てこない。
そんなわけでまぁ修学旅行でベトナムに行ってきたんです。まーバイクの多いこと。発展途上国から先進国になりつつある国なんですが、超高層ビルの合間にあるビルの屋上にトタン屋根の建造物がある光景は不思議でした。
やっぱり移動時間が長い
飛行機6時間。バス6時間。長い。暇を潰すにはやはり本だ。そんなわけで、前々から気になっていたユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパンを買った。
凄まじい。なんというか凄まじい。草薙素子女史みたいな人出てきたなと思ったら半分サイボーグなってしまった。技術の先進も凄まじく、電卓がスマホ/PCの代わりになっている。
これは、サイバーパンクだ。