なんとなく時間は過ぎる
2019年
早くも一か月が過ぎ、もう平成も終わりが近づいてきた。
元号なんて日本だけの話だし、天皇が代替わりするというだけの話なのに、退位が発表されてからのここ二年ほどは妙に天災やら人災が多かったように思う。
この30年はいろいろなことがあった。科学技術の発展、冷戦から対テロ戦争への移行、大災害。宗教がらみの話もあれば、もちろんいい方向への市場の変化もあった。
いまや世界は高高度情報化社会、VRやAR革新が進み、ゲームやシミュレータどころかアイドルまでもが拡張現実の世界へと進出し始めている。
エネルギー問題や環境問題、近くの国がらみの問題も山積みだけど、それでも人類史の中でも稀有な平和と発展の時代だったように思う。
サブカルチャー
そんなくくりでひとまとめにできないくらい、日本の水面下市場は大きくなった。聖地巡礼の地は行政がアニメ作品やゲーム作品とコラボするようになった。Youtubeの普及に伴うYoutuberの増加は言わずもがな、Vtuberはテレビにも出演したりライブなどのイベントを開くほどになった。一方のゲームやアニメ市場はスマートフォンに押されつつもコンシューマーとソーシャル市場が鎬を削っている。
一方で、ぼくの好きなジャンルで少しづつ衰退の兆しを見せているジャンルがある。SFだ。
SFとは何か。メカやハイテク機械が出てくる。サイバーパンクとは何か。ガジェット、マトリックス、電脳世界。本当にそうだろうか。
過ぎ去りし昭和末期から平成初期、いや、スターリングとギブスンの時代からゼロ年代と呼ばれる時代まで、そういった作品は世に溢れていた。
それはヤマトであり、マクロスであり、セカイ系を入れるならあるいはエヴァも異端でありながら入ってもいいかもしれない。
ディファレンス・エンジンやニューロマンサーを送り出した彼らが想像し創造した世界といまのSFには非常に大きな乖離があるといってもいい。
いまSFと呼べる作品がどれだけあるだろうか。
伊藤計劃さんが去って以後、「伊藤計劃以後」とくくられる作品たち。
いつからSFはロボとメカのものになったのか。いったいいつからSFはディストピアに、全体主義に、思想の話になったのか。
あの時代にあった、ガジェット群とブレードランナーで描かれた薄暗い近未来へのニヒルな部分もありながら夢を見ていたものたちはどこへいったのか。
「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」で使われる電卓は、ニューロマンサーでのホサカであり、ディファレンス・エンジンのパンチカード(モーダスといってもいい)であり、虐殺器官やharmonyのオーグだった。
あのまだ見ぬ技術を実現できそうな国を舞台にしたからこそのパシフィック・リムのイェーガーのような巨大メカを有する全体主義国家でのサイバーパンクの雰囲気は見事だった。
だからこそ、USoJが際立ってSFだったからこそ、SFというものがチープになってきた証拠だと思ってしまった。
神林長平作品のような機械と人間の関係でもなく、円城塔のような独自の理論を突き詰めるわけでもない中途半端にガジェットと機械を出し、舞台は薄汚れた社会主義や全体主義国家の路地裏であればSFであるという意識。
ギブスンが描いたチバ・シティの闇でもヴィラストレイライトでもなく。ディックの書き出す枯れた未来でもない。
伊藤計劃以後とくくってしまうのは簡単だ。でも、それはもちろん作家さんに対する最大級の侮蔑であろう。だが、その批判を受けて余りあるSFの未来への暗雲が立ち込めているのも確かなのだ。
時間がたつのは誰にも同じ
なんとなく時間は過ぎる。忙しくも時間は過ぎる。楽しくてもつらくても、時間は平等に過ぎていく。
だからこそ、止められない流れに逆らっていくことだって時には必要だと思うのだ。