破壊者
デモリッション・マン
シルヴェスター・スタローンが素晴らしい。何が素晴らしいってクリフハンガーの年のスタローンなので肉体美がまだまだ素晴らしい時代。
1993年に冷凍されて2036年に目覚めたジョン・スパルタンことスタローン。
悪役のフェニックス役はエクスペンダブルズでも出てくるウェズリー・スナイプス。
ヒャッハーしている。なんと素晴らしい映画だろう。
世界観的には、2010年に大地震が起こり滅亡しかけた文明が、コクトー博士の指導の元愛と平和の管理社会になったというもの。市民は皮下チップを埋め込まれIDやらカードの役割を果たす。体液交換は禁止、体を触れ合わせるのはタブー、汚い言葉を使うと罰金。綺麗なユートピアだ。
この映画を見た時にはたと思い出したのは伊藤計劃の/harmonyである。
数十年前に起こった疫病と暴動の大災害、それを乗り越えて友愛と博愛主義の管理監視社会。
昔ながらのものが好きな女公務員とまでくればこの作品にインスピレーションを得たのかもしれないと思うのも当然だ。
日本の着物チックなものを未来風にした服装も似ているように見える。
あとサンドラ・ブロックかわいい。
さて、2010年にカリフォルニア州ロサンゼルスを襲った大地震というと、おそらくはサンアンドレアス断層に起因する地震だろう。
2030年までの地震発生確率はヘイワーズセグメントで32%というのだから、似たようなことが起こる可能性はある。
その時、こういった管理社会になるのか。人類の選択は如何に。
現実はSFを模倣する、と誰かが言っていた。
最終盤では
エクスペンダブルズのようにベレー帽に二丁拳銃を構えたスタローン。ベレーのまま格闘するスタローン。この頃からどうやらスタイルは固まっていたらしい。
あと、敵とか地下勢力の格好がどう見ても北斗。肩パッドにトゲトゲ。こんなの面白いじゃん。
見てよかった。
前に、前に
いっつも思うけど他人の人間関係とかどう接してるかってそんな興味ある?
— Yuri Kudoh❖Garuda (@yurisiak0510) 2021年6月22日
まぁ知りたいって言う好奇心はいいけどなんでそこから批判&押しつけが始まるのかがわからん
こんなツイートを前にした。この日記もどきを遡れば、自分がまだ青かった頃の文字の羅列が残っている。ご覧のように、酷い高二病を拗らせたかんじだ。
そのすぐ後に、こんなツイートをした。
ヴァンペルトの
— Yuri Kudoh❖Garuda (@yurisiak0510) 2021年6月24日
「天国は存在する。不滅の魂も」
に対してのジェーンの答えが僕の全ての宗教に対する答えになってる
「僕はいらないね」
つまるところ、深井零ではないけれど、自分は自分の世界で生きて行ければいいと思っていた。
自分の能力は高いと思ってる訳では無いけれど、大体のことはこなせるし、大体の人よりできるという自尊心やアイデンティティ、エゴの塊である僕は、このコロナ禍でそのエゴやアイデンティティといった心と言うやつを完膚無きまでに粉砕された。
人は一人で生きていける
どうやらそういう訳にも行かないそうだ。
部活で全国へ。そんな青春を夢みて仲の良かった友人と全く違う離れた高校へ。3年間ですべてボロ雑巾のようになった。
入ってみたらクラブチームの方が「人数が揃えられなかった」らしく、クラブの3人と大学生に交じって朝早くと夜遅くに練習したり試合ではプールサイドに座って時間を過ごす毎日だった1年。
学校では私高でスポーツメインゆえの低レベルな教育、勉強はしないけど知識とか推理が得意だったのでなまじ模試やら定期テストやらで高得点を取り、学習クラスに。
2年を過ぎれば生徒会にも入ることになった。友達と呼べる仲のいい奴らはいたが、部活のメンバーはみんなほかのクラス。
同じ中学上がりのクラスメイト(それまでは同じ下校組だった程度の知り合い)と恋仲になったのだけれど、サッカー部の割とパリピな奴に寝取られた。
正確に言えば、僕の方がメンタル死んでて構ったりしてなかったから当然の帰結かもね。
さっき言った通り、3人からスタートしたこの〇〇部は中学からの引き継ぎで僕がキャプテンをやった。全日本のメンバーで日本一を撮ったチームの人がコーチや監督について指導してくれる、というのは幸運なことなのだろう。しかし、僕にとっては苦痛でしかなかった。
全国から引き抜いてきたプレーヤーたち。僕はお世辞にも上手いプレーヤーでは無かった。トップダウン型のチームではなく、ボトムアップ型のチームにしよう。そう決意して、いわば中間管理職のようなポジションにいた。
大変だったなぁ。頭があまり良くなくて、合宿やら遠征どころか毎日毎日問題があった。
〇〇部どうなってんだ。先生からの呼び出し。
××が赤点取ったと聞いた。監督からの呼び出し。それを受けてミーティングなり個人的に呼び出すなりした時の自分より下のくせに、と見下す後輩たちと自分の仕事じゃない、と無視する同期。
部活それ自体もチームのミスはキャプテンのミス。部員のミスや問題はほぼ全部被った。
勝てない理由、試合中の動きの話、あいつがこうこいつがそう……そんなのが続いた結果、不眠症になった。精確には、今思えば、だけど。
結構体を酷使するスポーツだったから身体は疲れ切っていて、でもやなことばかり考えて眠れない。
そんな時に、MMOに出会った。そこで仲良くなった友達と、夜遅くまで話したりした。疑似恋愛もした。メンバーからだいぶイタい小説を読んだり、仲裁に入ったり、そこでも中間管理職みたいなことをしていた。
3年にあがり、受験も考えなきゃ。そんな頃、監督が変わった。スパルタで体を動かすタイプの前監督から、理詰めで動く監督に。その結果?もっと立場が狭くなった。
部員たちの目の前で詰問されることが増えた。あれは誰が悪いんや。これはどうすればええんや。お前やろ。キャプテンなんやろ、と。
試合にもまともに出られなくなった。そんな時に慰めてくれた後輩と付き合い始めた。その子の故郷に行くのもありかな、と考え始めた矢先、夜に電話がかかってきた。
「先輩のことは好きだからなんていえばいいか分からない、本当にごめんなさい」
疲れ切っていてよくわからなかった。もっと頭が回る頃なら、たぶん察することが出来たんだと思う。
「先輩のことは好きだけど、もっと好きな人が出来た」
泣きじゃくりながら話す電話口で、僕は無意識に家を出たのを覚えている。
綺麗な月夜だった。
本当は引き止めて欲しかったのかもしれない。肉体関係は持ってなかったけれど、それ以外はお泊まり会もしたしキスだってした。デート……は部活の都合上厳しくて、ちょっと部活終わりに海見に行ったりご飯食べに行ったり。まぁそれなりのプラトニックな恋愛関係だった。
回らない頭で、そっか、しかたないね。わかった、と答えた。
そこからだった。予測変換に底という漢字が出てきた。底からと。底からじゃない。底からさらに落ちていった。
恋人だったはずの彼女は前の彼女を寝取ったのと同じ奴を好きになったらしい。1人目を前カノ、2人目を元カノとしよう。元カノはそいつと自分のつるんでるグループで僕を徹底的に無視することに決めたらしい。 最後の言葉も方便だった、とわかったところでもうなんの感情もわかなかった。
それは広がり、後輩たちは僕のことをさらに舐めた目で見るようになった。地元組の後輩はそれでも良くしてくれたが、なんの気休めにもならなかった。
ちなみに、前カノは結局振られたらしくメンタルがボロボロになって僕に助けを求めてきた。別になんとも思ってなかったので、イヤホンしながら愚痴を聞き流し、毎晩送られてくるメンヘラメッセージを相槌と同意でやりすごし、帰りの電車ではスマホの画面だけ見て隣でまるで昔に戻ったかのようにくっつく前カノも、拠り所が欲しいだけで僕じゃなくていいことを知っていた。だから、僕の中では別に友達でも知り合いでもなく、恋人であったことさえ心の奥底に閉じ込めて少し距離が近い知り合いだった人として過ごしていた。
部活の方はもちろん上手くいくわけがなく、何とか出場権を獲得したインターハイでも1試合も出ることなく終わった。
「3年生でインターハイに行く」
誘い文句は嘘じゃなかった。でも、なんの達成感も栄光も賞賛もなかった。何度退部届けを出そうと思ったろう。一言、辞めますが言えなかった。
当時から高二病だった僕自身がいちばん斜に見ていた組織関係に捕らわれていた。滑稽な話しだ。
そんなメンタルの崩壊を促進したのが先のMMOだった。リーダーとメンバーの喧嘩に巻き込まれ、またしても仲裁、管理職。疑似恋愛でも情は湧いていたようで、少し部活が忙しくて離れていたら、どうやら嫌われてしまったみたいだ。無視、無視、無視。ご丁寧にブロックまでされた。理由も聞けなかった。そのMMOはやめた。
そんな時に決めたのが、地元を出て誰も知らない所へ行くことだった。
一冊の本に出会ったことで、その決断ができた。
たくさん練習して対策して推薦に受かった。入試の席の隣の人と仲良くなれた。
僕は上京したての田舎者。こっちのグループの人とは仲良くなれなさそうだな、と思っていた。そんな気持ちで迎えた新入生セミナー。泊まりがけで色々なところに行くものだ。同じ班の人と仲良くなれたと思った。その初日の夜の温泉。なんだったかは忘れたけれど、何かで揉めた。大学近くに住んでる僕のアパートに宿代わりに泊まろうとしてくる連絡も全部蹴った。そして、簡単に言えば大学でのグループから弾かれた。
まったくお笑いだ。これじゃ、ただのコミュニケーション能力に問題がある自己陶酔型のエゴイストだ。
結局その日は宿でひたすら1人になれる場所を探していた。
次の日もずっと1人だった。グループに僕の居場所はなかった。1年は成績優秀でバーのバイトでとそこそこ充実していた。
ところが、2年に入る前にコロナが始まった。授業はリモート。課題はメール。バイトは全部休止。
さて、こまった。何もすることがない。ここにきて、不眠症が最悪の状況になった。それまでは小康状態だったが、一気に来た。昼夜逆転が毎日起こった。昼に寝る日と夜に寝る日が徹夜を挟んで交互に来る。友達もいない。MMOを始めた。別のタイトルだ。のめりこんだ。ずーっとそのゲームをしていた。とあるバトルロイヤルシューティングにもハマったかな。
2年次の単位なんかないに等しかった。そして3年。MMOは凪でFPSは友達がいない。ずっとソロで回していた。一時期ランクを回していた人もいたけれど、誘っても返事がない。断られる。別の人と。そんな返事ばかり。
ふと頭をよぎった言葉が気持ち悪くて仕方なかった。
僕が一緒に遊べるのは声掛けてるあなたたちしかいないのに
フレンド欄、返事のないメッセージ欄。交互に見て、ずっと感情が消えていった。
少しならできるけどやる?と言われた時にはもう遅かった。手が勝手に動いていた。
大丈夫。やらなくて大丈夫。
それが多分、最後の理性的な抵抗でもあった。衝動的に書かなくてよかった。
それをここでぶちまけてしまおうか。それもいい。
一緒に回すって言ったじゃん。
遊んでたら声かけるって言ったじゃん。
3回声掛けて3回とももダメだったよ。
嫌いなら嫌いって言ってよ。
声掛けて欲しくないならそういえばいい。傷つかないから。もう傷だらけだから気にしないよ。
理由つけて断ったあと見たら別の人とやってるじゃん。
そもそも毎回僕から誘ってて誘ってくれたことほとんどないでしょ。
君たちには他のフレンドがいる。でも僕には君たちしかいないんだ。
口に出かかってとめた言葉。友達を作る努力をしなかった僕が悪いのはわかってる。それでも言いたくなってしまうなら、感情なんていらないじゃないか。
この言葉を考えてから冒頭のツイートである「僕はいらないね」を見た時に、自分が愚かの極みだったことに気づいたのだ。
いらないと言えるのは選択できるから
なんだ、お前は。散々友達がいる時にいらないいらないと言っておいて、欲しがってるじゃないか。馬鹿か。
いま、僕は心療内科にかかっている。睡眠薬を貰い、どうにか社会生活を続けられるようにしようとしている。
可笑しいね。人は1人では、生きていけないんだよ。
誰かもっと早く言ってくれよ。こんなの知らなかったよ。たった1人でインターネット上のコンテンツと膨大な時間を消費する毎日。
僕はもう、落伍者だ。
冥福、とは
思い出と記憶と記録
我々が死者に安らかであれ、と願うのは何故だろうか。
それは死者の眠りが往々にして安らかではないからだ。
作家・伊藤計劃は綴る。死者は、その経験不可能性によって私たちを支配する。
そういえば、「屍者の帝国」で生命についてこうも言っていた。
「性交渉によって感染する、致死性の病」
ぼくたちは死に向かっていきながら、死を経験することもなく身近に感じることすら少ないのだ。 ぼくは幼いころに家族を立て続けに亡くした。
だからだろうか、ずっとこう考えている。死がとても怖い。でも、神様も仏さまも救いの手なんか差し伸べてくれない。あの世なんかない。死んだらそこで終わりだ。輪廻転生も、天国も地獄も、楽園もない。
あるいはそう信じたいだけなのかもしれない。ただの自分を肉の塊だと認めるのが嫌なだけなのかもしれない。
だから、ぼくは冥土なんて言葉は信じないし、死者は記憶と記録の中にしかいない、眠ることさえないと思っている。これはすこし攻撃的に過ぎるかもしれないけれど。
人が死んだとき、この世界から去って行ってしまったとき、それを痛みと悼みとして思い出すとき、ぼくはなんといえばいいだろうか。ずっと悩んでいた。訃報を耳にするのは家族だけではない。俳優、作家、アーティスト・・・たぶんぼくはいつも、こういってきた。
「ありがとうございました」
あなたが演じた物語は、あなたが創った物語は、あなたが紡いだ歌は、あなたが描いた絵は、あなたたちがぼくにくれた物語は、ぼくをつくる一部になっています。あなたたちがくれた世界は、ぼくの世界を彩ってくれています。
あなたたちが見せてくれた世界が、私を幸福にしてくれています。
そして、こう考えてもいる。
過去形で語ることはできるだけしたくない。だって、その人は逝ってしまっても、その人の言葉は過去で、行動は跡しか残っていないとしても、物語は、いまもあるのだから。
だから、マイディーさん、どうもありがとうございました。
インターネット上の世界、エオルゼアと現実をつなぐ架け橋として、あなたが作ってくれた物語はあります。本当に、ありがとうございました。
個別としての複合体
人工知能
とは、何か。広義でいうならば、チェスや囲碁からディープラーニングやニューラルネットワークまで様々だ。ではここで、「人工知能は人間を超えるか」という命題に対して、NOと断言した文章が目の前に存在するとしよう。AIは意味や意識を理解せず、AIは人間の補助装置としてしかありえない。人類を超えることはない、と書いてある。本当にそうだろうか?
文章が書かれたのがいつかは知らないが、いまや世界を覆うインターネットに存在しないものは無い。というのは過言かもしれないが、おそらくほぼ全てがそこに存在するだろう。
なにがいいたいかというと、だ。人工知能は幾らでもヒトを超える可能性を秘めているのだ。ぼくは人類が人工知能に支配されるか、とか、理解がどうの、という話に興味はない。いや、正直言うとないわけではないけれど、それを盾に人工知能の可能性を全て否定されたのが気に食わなかったのだ。
人工知能はSF?
つまるところぼくはSFの使徒で、ぼくが今まで触れてきた世界は概ねコンピュータとネットワークがあったから。今時、恋愛モノだろうが学園モノだろうが能力モノだろうが端末という物はある。強いて言うなら異世界モノと時代モノくらいか。
サイバーパンク、攻殻、MGS、伊藤計劃作品、あるいはトム・クランシー・・・高度にネットワーク化された作品は数あれど、携帯やPC、インターネット、テレビ、ラジオ・・・機器が存在しない作品、というのは今のところあまり見た事がない。
機器とはすなわち人類のツールとして存在していて、決してSFの存在ではないのだ。
ではなぜ、人類と人工知能の話を切り出すと、SFになってしまうのか。
それは、SFの文化的根本にある。
SFとは
サブカルチャーである。決してメインカルチャーになることはない。それは、インターネットというものが若い存在だからである。今の政治家世代に、インターネットに触れて育ってきた人物が一体どれだけいるだろうか。インターネットと共に育ってきた人間は、ネットを外部記憶装置や身体の一部とも言える認識を持っている。
いわばイメージの話なのだ、文化とは。
アニメに触れて育っていけばアニメをリアルに考える。推理小説なら、時代劇なら、ドラマなら、映画なら、ゲームなら、戦争なら、働く親父なら、騎士なら、農民なら、貴族なら。そうやって醸成される文化の中に、インターネットはギリギリまだ若い。
だから、AIとはSFなのだ。
やがて、人類と触れる時間が10年、20年と増えていけばあるのが当たり前、つまり文化になっていくことだろう。
個としての複合体
今の社会はまさに、個としての複合体。スタンド・アローン・コンプレックス。
タピオカの風刺画で集中攻撃された女性。攻撃者と擁護者。あるいは政治問題、それどころか政治家、タレントや芸能人本人に自分の意見をぶつける。それが出来る社会。喜ぶべきか、悩ましい。
ネット上では容易に賛同者が見つかる。同様に、敵対者も。オリジナルと考えていても模倣であることもあるし、模倣と思っていたらオリジナルということもある。全てが二律背反。あらゆる可能性が混在する、混沌にして可能性の集積。それがインターネットだ。
複合体の末端の個であり、個の集合としての複合体。自覚なき複合は、集合的無意識であり無意識的集合。
「すべてが、同じ色に染まっていく」
AIの進化は、人類が今までたどってきた進化と全く別の進化になるだろう。だが、これからの人類の進化は、あるいは・・・
ゲームエンド
アベンジャーズ/エンドゲーム
見に行きましたよ。公開日に行くことは叶わなかったけど、なんとか観ることが出来ましたよ。
やー、よかった。何が良かったって、こういうシリーズ物のアクション映画で、CGやシリーズ物固有の泣かせにくる演出よりも純粋な感動があったんですよ。
前作や最初の作品から持ってきたネタもあったにはあったけど、その登場人物由来の感動を見せてくれたことにぼくは感動しました。
ネタバレ不可避だからこれ以上何も言えないけどネ!
それはそうと
アイアンマン推しのぼくですが。ドクターストレンジかっこよすぎません?今までは感じなかったけど、魔術師みたいな役のカンバーバッチがかっこよすぎる。
ということでこれからストレンジ追います・・・
これを書いてる時に
ジョン・ウィック:パラベラムがこのアベンジャーズ/エンドゲームの興行収入を抜いたらしい。
これは期待が膨らむ。
GODZILLAもヤツらが集まる。行くしかない。
鉄男
今更?
シャザム!が公開され、MCUもいまだにその裾野を広げる最中、アイアンマンを見た。
見たことがないわけでもないし、取り立ててアイアンマンやMCUが好きなわけではないのだけれど、ちょっと見たくなったのだった。
はい、今更です。でも、小学生の頃に見たアイアンマンとはだいぶ違う視点で見れるようになったので一筆、と思い立った次第。
ちなみにぼくはこの春から大学生になった。映画がたくさん見られる、と思いきやバイト代が入るのは来月からだし、地元を出て私大なんていう真似をしたせいで仕送りは生活費に充てるだけで精一杯。
Halloweenとかハンターキラーとかいろいろ見たいんだけどなぁ。あぁ、無情。
アイロンマンではない
アイアンマン、なんというか素晴らしく男心というか中学生くらいの男子の心に来る雰囲気の作品なんだよね。
08年の作品だから、まだまだコンピュータのUIやAIなんてのはSFの中の話、という印象が強かった。実際、劇中でトニーやペッパーが使ってるのは携帯。今からしてみれば、携帯を使うトニーのホームコンピュータがAIの統合制御されるホログラフィックインターフェースを持つなんてアンバランスも、当時のぼくはいつかこんなホログラムで機械をいじってみたい、ゲームやネットサーフィンをしてみたい、と思ったものだ。
今更この映画のいいところ悪いところを上げ連ねても仕方がないので、この映画の好きなところを上げていこう。
まずオマージュ、というかリスペクトが多い(ように思う)映画だった。
最初にトニーの命をつなぎとめてくれた科学者、インセン博士。彼がマーク1を起動させるまでの時間を稼ごうと洞窟内を銃を乱射して走った時、あれは思わず(不謹慎なのはわかっているのだけれど)笑ってしまった。
完全にデススターの中をブラスター連射しながら追いかけていったハン・ソロ。シーンの落ちまで完璧。
これはオマージュというかはわからないけど、これの前年に公開されたトランスフォーマーを小さくしたかのような道路上での戦闘。アイアンマンも顔面破壊大帝のごとく顔を執拗に狙うのはなぜなのか。
戦闘シーンはさておいて、やはり技術面が今見てもいい。
マーク1や2,3を作っている過程もそうだけど、妙に人間味のあふれるダミーやユー、ジャーヴィス、先進的すぎるシステムの描写の後に唐突に差し込まれるアウディの高級車F-22、戦車。ガソリンエンジンを使った車、ラプター、戦車。アーク・リアクターを使ったアイアンマンを見た後ではずいぶん前時代的に見えるけれど、やはりいいな、と思った。でもアイアンマンに当てたあの戦車、何者なんですかね。いくら直線機動とはいえ、人型サイズでふらつきながら飛ぶ流線型の物体に主砲当てたわけだし、たとえ機械制御にしても素晴らしい精度。
トニーが新型アーク・リアクターを抜かれた後に旧型を使って戦いを挑むのはやはり燃える展開。
たとえるならアンドロメダに対するヤマト、GN-Xに挑むエクシアR。
ラストシーン、なんでトニーは無事でオバディアは制御を失って倒れたんですかね。
トニーはアーク・リアクターを生身と接続してるけど、オバディアはそうじゃないからとか、トニーのリアクターは中身がほぼ尽きかけてたけど、オバディアの新型はいっぱいあったとかいろいろ考えが膨らむ。
トニー・スターク
ここで、トニーに目を向けると、この後の実写映画版シリーズやマーベル作品群にもみられる傾向がひとつ。サバイバーズギルト。極限状態から生還したものが、生還できなかった人たちに対して抱く罪悪感のようなもので、ひどいものはPTSDも併発する。
スーツに対する信頼感、裏返すとスーツがないときの不安感も然り、自社の商品が秘密裏に輸出されほかの罪のない人たちを傷つけていたと知った時の焦りも、トニーのどこか子供じみた感覚にフィルタをかけられている。
もちろんぼくが30代になってスーツを着て空を飛べば「ひゃっほおおおおう」などと叫ぶこと間違いなしだ。当然。
しかし、トニーのそれはどこか違うほうを向いているように思える。社交場でのペッパーとのやり取りから普段のトニーの天真爛漫さ、オバディアたちが言う身勝手さ、あるいは兵器をデザインするためであって人を殺すために開発していたのではないと思っているその考えは、20の誕生日に両親を事故で失い社長に就いた男にはどこか似つかわしくない。
彼はきっと、自らの限界を挫折ではなく成功によって乗り越えてきたからだ。
マーク1の製造然り、リアクターを引き抜かれたとき然り、彼は敗北はしてもそれを乗り越えるだけのものを持っている。そして、それは挫折と無縁のトニー・スタークという男を作り出した。
彼は言う。
「計算が正しければ───まぁ正しいだろうが」
これは、彼が今まで過ごしてきた時の中で、自らの能力の限界を乗り越えてきたことに裏打ちされていると思う。
だからこそスーパーヒーローにあこがれ、なりたいと思う自分を実現できた。
だからこそ自分に絶対の自信をもって戦うことができた。
この映画の最後は、スーパーヒーロー’’アイアンマン’’が決着をつけたのではなかった。それはきっと、ペッパーがこれから彼にとってどれだけのウェイトを占める存在になるかも示しているのかもしれない。小学生のぼくは、なんでアイアンマンじゃなくていけ好かない秘書がトドメなんだ、と憤慨したりもしたのだけれど。
チープな展開も、設定が入ることによってさまざまな様相を呈する。
アイアンマンは、いつだってあのかっこいい着地をしてくれるだろう。
ニヒルな笑みを浮かべたトニーがやってきてくれるに違いない。
それが、ぼくの思う、そしてきっと彼も思うスーパーヒーローなのだから。
なんとなく時間は過ぎる
2019年
早くも一か月が過ぎ、もう平成も終わりが近づいてきた。
元号なんて日本だけの話だし、天皇が代替わりするというだけの話なのに、退位が発表されてからのここ二年ほどは妙に天災やら人災が多かったように思う。
この30年はいろいろなことがあった。科学技術の発展、冷戦から対テロ戦争への移行、大災害。宗教がらみの話もあれば、もちろんいい方向への市場の変化もあった。
いまや世界は高高度情報化社会、VRやAR革新が進み、ゲームやシミュレータどころかアイドルまでもが拡張現実の世界へと進出し始めている。
エネルギー問題や環境問題、近くの国がらみの問題も山積みだけど、それでも人類史の中でも稀有な平和と発展の時代だったように思う。
サブカルチャー
そんなくくりでひとまとめにできないくらい、日本の水面下市場は大きくなった。聖地巡礼の地は行政がアニメ作品やゲーム作品とコラボするようになった。Youtubeの普及に伴うYoutuberの増加は言わずもがな、Vtuberはテレビにも出演したりライブなどのイベントを開くほどになった。一方のゲームやアニメ市場はスマートフォンに押されつつもコンシューマーとソーシャル市場が鎬を削っている。
一方で、ぼくの好きなジャンルで少しづつ衰退の兆しを見せているジャンルがある。SFだ。
SFとは何か。メカやハイテク機械が出てくる。サイバーパンクとは何か。ガジェット、マトリックス、電脳世界。本当にそうだろうか。
過ぎ去りし昭和末期から平成初期、いや、スターリングとギブスンの時代からゼロ年代と呼ばれる時代まで、そういった作品は世に溢れていた。
それはヤマトであり、マクロスであり、セカイ系を入れるならあるいはエヴァも異端でありながら入ってもいいかもしれない。
ディファレンス・エンジンやニューロマンサーを送り出した彼らが想像し創造した世界といまのSFには非常に大きな乖離があるといってもいい。
いまSFと呼べる作品がどれだけあるだろうか。
伊藤計劃さんが去って以後、「伊藤計劃以後」とくくられる作品たち。
いつからSFはロボとメカのものになったのか。いったいいつからSFはディストピアに、全体主義に、思想の話になったのか。
あの時代にあった、ガジェット群とブレードランナーで描かれた薄暗い近未来へのニヒルな部分もありながら夢を見ていたものたちはどこへいったのか。
「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」で使われる電卓は、ニューロマンサーでのホサカであり、ディファレンス・エンジンのパンチカード(モーダスといってもいい)であり、虐殺器官やharmonyのオーグだった。
あのまだ見ぬ技術を実現できそうな国を舞台にしたからこそのパシフィック・リムのイェーガーのような巨大メカを有する全体主義国家でのサイバーパンクの雰囲気は見事だった。
だからこそ、USoJが際立ってSFだったからこそ、SFというものがチープになってきた証拠だと思ってしまった。
神林長平作品のような機械と人間の関係でもなく、円城塔のような独自の理論を突き詰めるわけでもない中途半端にガジェットと機械を出し、舞台は薄汚れた社会主義や全体主義国家の路地裏であればSFであるという意識。
ギブスンが描いたチバ・シティの闇でもヴィラストレイライトでもなく。ディックの書き出す枯れた未来でもない。
伊藤計劃以後とくくってしまうのは簡単だ。でも、それはもちろん作家さんに対する最大級の侮蔑であろう。だが、その批判を受けて余りあるSFの未来への暗雲が立ち込めているのも確かなのだ。
時間がたつのは誰にも同じ
なんとなく時間は過ぎる。忙しくも時間は過ぎる。楽しくてもつらくても、時間は平等に過ぎていく。
だからこそ、止められない流れに逆らっていくことだって時には必要だと思うのだ。