Diary

日記といいつつ、あったことや思ったことを適当に書いていきます。

ゲームエンド

アベンジャーズ/エンドゲーム

見に行きましたよ。公開日に行くことは叶わなかったけど、なんとか観ることが出来ましたよ。

やー、よかった。何が良かったって、こういうシリーズ物のアクション映画で、CGやシリーズ物固有の泣かせにくる演出よりも純粋な感動があったんですよ。

前作や最初の作品から持ってきたネタもあったにはあったけど、その登場人物由来の感動を見せてくれたことにぼくは感動しました。

ネタバレ不可避だからこれ以上何も言えないけどネ!

 

それはそうと

アイアンマン推しのぼくですが。ドクターストレンジかっこよすぎません?今までは感じなかったけど、魔術師みたいな役のカンバーバッチがかっこよすぎる。

ということでこれからストレンジ追います・・・

これを書いてる時に

ジョン・ウィック:パラベラムがこのアベンジャーズ/エンドゲームの興行収入を抜いたらしい。

これは期待が膨らむ。

GODZILLAもヤツらが集まる。行くしかない。

鉄男

今更?

シャザム!が公開され、MCUもいまだにその裾野を広げる最中、アイアンマンを見た。

見たことがないわけでもないし、取り立ててアイアンマンやMCUが好きなわけではないのだけれど、ちょっと見たくなったのだった。

はい、今更です。でも、小学生の頃に見たアイアンマンとはだいぶ違う視点で見れるようになったので一筆、と思い立った次第。

ちなみにぼくはこの春から大学生になった。映画がたくさん見られる、と思いきやバイト代が入るのは来月からだし、地元を出て私大なんていう真似をしたせいで仕送りは生活費に充てるだけで精一杯。

Halloweenとかハンターキラーとかいろいろ見たいんだけどなぁ。あぁ、無情。

 

アイロンマンではない

アイアンマン、なんというか素晴らしく男心というか中学生くらいの男子の心に来る雰囲気の作品なんだよね。

08年の作品だから、まだまだコンピュータのUIやAIなんてのはSFの中の話、という印象が強かった。実際、劇中でトニーやペッパーが使ってるのは携帯。今からしてみれば、携帯を使うトニーのホームコンピュータがAIの統合制御されるホログラフィックインターフェースを持つなんてアンバランスも、当時のぼくはいつかこんなホログラムで機械をいじってみたい、ゲームやネットサーフィンをしてみたい、と思ったものだ。

今更この映画のいいところ悪いところを上げ連ねても仕方がないので、この映画の好きなところを上げていこう。

まずオマージュ、というかリスペクトが多い(ように思う)映画だった。

最初にトニーの命をつなぎとめてくれた科学者、インセン博士。彼がマーク1を起動させるまでの時間を稼ごうと洞窟内を銃を乱射して走った時、あれは思わず(不謹慎なのはわかっているのだけれど)笑ってしまった。

完全にデススターの中をブラスター連射しながら追いかけていったハン・ソロ。シーンの落ちまで完璧。

これはオマージュというかはわからないけど、これの前年に公開されたトランスフォーマーを小さくしたかのような道路上での戦闘。アイアンマンも顔面破壊大帝のごとく顔を執拗に狙うのはなぜなのか。

戦闘シーンはさておいて、やはり技術面が今見てもいい。

マーク1や2,3を作っている過程もそうだけど、妙に人間味のあふれるダミーやユー、ジャーヴィス、先進的すぎるシステムの描写の後に唐突に差し込まれるアウディの高級車F-22、戦車。ガソリンエンジンを使った車、ラプター、戦車。アーク・リアクターを使ったアイアンマンを見た後ではずいぶん前時代的に見えるけれど、やはりいいな、と思った。でもアイアンマンに当てたあの戦車、何者なんですかね。いくら直線機動とはいえ、人型サイズでふらつきながら飛ぶ流線型の物体に主砲当てたわけだし、たとえ機械制御にしても素晴らしい精度。

トニーが新型アーク・リアクターを抜かれた後に旧型を使って戦いを挑むのはやはり燃える展開。

たとえるならアンドロメダに対するヤマト、GN-Xに挑むエクシアR。

ラストシーン、なんでトニーは無事でオバディアは制御を失って倒れたんですかね。

トニーはアーク・リアクターを生身と接続してるけど、オバディアはそうじゃないからとか、トニーのリアクターは中身がほぼ尽きかけてたけど、オバディアの新型はいっぱいあったとかいろいろ考えが膨らむ。

トニー・スターク

ここで、トニーに目を向けると、この後の実写映画版シリーズやマーベル作品群にもみられる傾向がひとつ。サバイバーズギルト。極限状態から生還したものが、生還できなかった人たちに対して抱く罪悪感のようなもので、ひどいものはPTSDも併発する。

スーツに対する信頼感、裏返すとスーツがないときの不安感も然り、自社の商品が秘密裏に輸出されほかの罪のない人たちを傷つけていたと知った時の焦りも、トニーのどこか子供じみた感覚にフィルタをかけられている。

もちろんぼくが30代になってスーツを着て空を飛べば「ひゃっほおおおおう」などと叫ぶこと間違いなしだ。当然。

しかし、トニーのそれはどこか違うほうを向いているように思える。社交場でのペッパーとのやり取りから普段のトニーの天真爛漫さ、オバディアたちが言う身勝手さ、あるいは兵器をデザインするためであって人を殺すために開発していたのではないと思っているその考えは、20の誕生日に両親を事故で失い社長に就いた男にはどこか似つかわしくない。

彼はきっと、自らの限界を挫折ではなく成功によって乗り越えてきたからだ。

マーク1の製造然り、リアクターを引き抜かれたとき然り、彼は敗北はしてもそれを乗り越えるだけのものを持っている。そして、それは挫折と無縁のトニー・スタークという男を作り出した。

彼は言う。

「計算が正しければ───まぁ正しいだろうが」

これは、彼が今まで過ごしてきた時の中で、自らの能力の限界を乗り越えてきたことに裏打ちされていると思う。

だからこそスーパーヒーローにあこがれ、なりたいと思う自分を実現できた。

だからこそ自分に絶対の自信をもって戦うことができた。

 

この映画の最後は、スーパーヒーロー’’アイアンマン’’が決着をつけたのではなかった。それはきっと、ペッパーがこれから彼にとってどれだけのウェイトを占める存在になるかも示しているのかもしれない。小学生のぼくは、なんでアイアンマンじゃなくていけ好かない秘書がトドメなんだ、と憤慨したりもしたのだけれど。

チープな展開も、設定が入ることによってさまざまな様相を呈する。

アイアンマンは、いつだってあのかっこいい着地をしてくれるだろう。

ヒルな笑みを浮かべたトニーがやってきてくれるに違いない。

それが、ぼくの思う、そしてきっと彼も思うスーパーヒーローなのだから。

なんとなく時間は過ぎる

2019年

早くも一か月が過ぎ、もう平成も終わりが近づいてきた。

元号なんて日本だけの話だし、天皇が代替わりするというだけの話なのに、退位が発表されてからのここ二年ほどは妙に天災やら人災が多かったように思う。

この30年はいろいろなことがあった。科学技術の発展、冷戦から対テロ戦争への移行、大災害。宗教がらみの話もあれば、もちろんいい方向への市場の変化もあった。

いまや世界は高高度情報化社会、VRやAR革新が進み、ゲームやシミュレータどころかアイドルまでもが拡張現実の世界へと進出し始めている。

エネルギー問題や環境問題、近くの国がらみの問題も山積みだけど、それでも人類史の中でも稀有な平和と発展の時代だったように思う。

サブカルチャー

そんなくくりでひとまとめにできないくらい、日本の水面下市場は大きくなった。聖地巡礼の地は行政がアニメ作品やゲーム作品とコラボするようになった。Youtubeの普及に伴うYoutuberの増加は言わずもがな、Vtuberはテレビにも出演したりライブなどのイベントを開くほどになった。一方のゲームやアニメ市場はスマートフォンに押されつつもコンシューマーとソーシャル市場が鎬を削っている。

一方で、ぼくの好きなジャンルで少しづつ衰退の兆しを見せているジャンルがある。SFだ。

SFとは何か。メカやハイテク機械が出てくる。サイバーパンクとは何か。ガジェット、マトリックス、電脳世界。本当にそうだろうか。

過ぎ去りし昭和末期から平成初期、いや、スターリングとギブスンの時代からゼロ年代と呼ばれる時代まで、そういった作品は世に溢れていた。

それはヤマトであり、マクロスであり、セカイ系を入れるならあるいはエヴァも異端でありながら入ってもいいかもしれない。

ディファレンス・エンジンニューロマンサーを送り出した彼らが想像し創造した世界といまのSFには非常に大きな乖離があるといってもいい。

いまSFと呼べる作品がどれだけあるだろうか。

伊藤計劃さんが去って以後、「伊藤計劃以後」とくくられる作品たち。

いつからSFはロボとメカのものになったのか。いったいいつからSFはディストピアに、全体主義に、思想の話になったのか。

あの時代にあった、ガジェット群とブレードランナーで描かれた薄暗い近未来へのニヒルな部分もありながら夢を見ていたものたちはどこへいったのか。

「ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン」で使われる電卓は、ニューロマンサーでのホサカであり、ディファレンス・エンジンのパンチカード(モーダスといってもいい)であり、虐殺器官やharmonyのオーグだった。

あのまだ見ぬ技術を実現できそうな国を舞台にしたからこそのパシフィック・リムのイェーガーのような巨大メカを有する全体主義国家でのサイバーパンクの雰囲気は見事だった。

だからこそ、USoJが際立ってSFだったからこそ、SFというものがチープになってきた証拠だと思ってしまった。

 

神林長平作品のような機械と人間の関係でもなく、円城塔のような独自の理論を突き詰めるわけでもない中途半端にガジェットと機械を出し、舞台は薄汚れた社会主義全体主義国家の路地裏であればSFであるという意識。

ギブスンが描いたチバ・シティの闇でもヴィラストレイライトでもなく。ディックの書き出す枯れた未来でもない。

伊藤計劃以後とくくってしまうのは簡単だ。でも、それはもちろん作家さんに対する最大級の侮蔑であろう。だが、その批判を受けて余りあるSFの未来への暗雲が立ち込めているのも確かなのだ。

時間がたつのは誰にも同じ

なんとなく時間は過ぎる。忙しくも時間は過ぎる。楽しくてもつらくても、時間は平等に過ぎていく。

だからこそ、止められない流れに逆らっていくことだって時には必要だと思うのだ。

物語

ぼくの悪癖

ぼくは、どうも物語性を思い起こす悪い癖があるようなのだ。

それは、MGSのミーム的な話やある種のファンタシーの話ではなく、もっと身近な、ひとつのツイート、ひとつのアニメ、ひとつのキャラクターにそれを見出してしまうということだ。

たとえば、この前はRELEASE THE SPACEの一幕に。

ランボーに、フレディ・マーキュリーに、あるいは国会答弁に、ニュースの記事に。鴨居つばめに、半蔵門雪に、時には物に。

世間一般でいうところの重く受け止めて考え込むタイプではあるのだけれど、そう言われると違うような気がする。

 

言葉にしようとすると難しいのだけれど、なんというか…その…それについて深く考えることは考えるのだけれど、受け止めている訳では無い、と思う。

つまり、ぼくは考えはしてもそれがどうした、俺には関係ないと初期の深井零のような気持ちで見ている。

ところが、不思議なことにその余波をもろに受けるのだ。まさにランボーリリスパを見た時のように。

何が違う、と言われると自分でも同じように感じているのだけれど。

うーん、自分でもよくわからない。

今日はここまでにしておこう。

あまりまとまっていないことをつらつら書いても意味がないからね。

鬱なときはいいけれど、普通の時にやってもあまり意味は無い…んじゃないかな。

ランボー・乱暴・Rambo

ジョン・R・ランボー

ランボーとは、ランボーである。

ランボー。それは破壊とワンマンアーミーの代名詞。シルヴェスター・スタローンのロッキーに次ぐヒット作。

 

ネタバレ注意。

 

ぼくは2作目の怒りの脱出がいちばん好きだ。ストーリーはいつも通りのランボーベトナムに単独潜入、捕虜の確認をして帰ってくる。

そういったところの指揮官にろくな奴がいるはずもなく、敵地に置き去りにされ拷問を受けるランボー

通信を強いられ大佐の反応から基地司令の犯行に気づき殺害予告を無線機越しに話すランボー

次の瞬間マイクスタンドで敵を殴りつけ脱出するランボー

協力者とのラブロマンスもつかの間死亡フラグを立てまくりランボーブチ切れ。

そこからのゲリラ戦はシリーズ最高傑作と言っても過言ではないだろう。

 

ベトナムを生き抜いたランボーの真骨頂、泥の中から暗殺したり弓でヘリを落としたり、軟着陸したヘリのコクピットで死んだフリをして近づいてきた間抜けに向かって携行ロケットランチャーをぶっぱなす。

痛快とはこのことである。

死んだ愛する人アオザイをバンダナに、首にはお守り。弓と矢を背負いナイフ片手にジャングルを駆けるランボーは、まさに80年代の戦争映画を象徴する筋肉。いや、ランボー

スタローンの肉体美は3作目の怒りのアフガンで完成された(ランボーシリーズでは)と思うのだけれど、脱出でもあの筋肉は凄まじかった。

具体的に言うと、部活を引退して身体が(わりと)だらけてきたぼくが筋トレを決意するくらいにすごかった。

今季の「うちのメイドがウザすぎる!」での鴨居つばめの筋肉もそうだけれど、どうもぼくは筋肉にフェティシュがあるようだ。

で、スタローンの筋肉、どうもぼくのどストライクのようで、シュワルツェネッガージェイソン・ステイサムとはどこか違うように思う。

たぶんくびれだ。スタローン、上体と下半身の筋肉のつき方が理想的なのだけれど、寸胴ではないのだ。そこがいいのだろう。何を言っているんだ俺は。

 

ちなみに今年、トゥームレイダーの新作ゲームがでたのだが、もろ怒りの脱出だった。

タンクトップの弓と矢を背負ったコンバットナイフを持つララ・クロフト

体に泥を塗り泥壁からナイフを刺すララ・クロフト

ノーマルの矢や爆発する矢でヘリや兵士を殺戮するララ・クロフト

女版ランボーとはよく言ったものである。

 

眠くなってきたので今日はここまで。明日は終業式だし、また違った内容の興味深いお題を思いついたのでそっちで。

リリスパ

最近アニメを見ることが増えた

というわけで、増えたと言ってもまだまだ見ていないので少しづつ見ていくことにする。

いまのところは映画とアニメを6:4くらいで消化中。

 

リリスパは雪推し、具体的に言うと沼倉愛美推しである。

 

ぬーさんは響の頃からファンで、アルペジオのタカオとかリリスパの雪、ウザメイのつばめ等々・・・最近は、アイマスのキャラや歌以外で声を聞くことも増えたので少し嬉しい。

この前CDを出したのだけれども、なにぶん受験生なもので買いに行くお金や時間がない。だが欲しい。しかしセンターが。

 

ソラサキ応答なし

なんだこれは。全く予想を裏切る展開だった。

あ、ネタバレ注意です。

 

沖縄編や雪の回想シーンで仄めかされたスパイスの効果時間についての伏線かと思っていたものがなんの意味も持たずに使い潰されていた(少なくとも現段階では)。

スパイスの効果時間が短くなるというのが雪のスパイス二重がけのためのものだとしたらカトリーナが言う必要が無い。なんだこの違和感は。

 

沖縄編とソラサキ応答なしのつながりを考えるとひとつの共通点が浮かんでくる。

沖縄に来たメンバーとソラサキ待機メンバー。

雪、もも、五恵、楓。

彼女たち4人は、沖縄に行ったメンバーであり明確な"終わり"が描写されている。

雪は師匠の長穂と同じように弟子を守って胸を袈裟斬りされ戦闘不能

もも、五恵、楓はモウリョウに拉致された。

カトリーナ、初芽、命。

彼女たち3人は、ソラサキ待機メンバーであり生死不明。いや、行方不明。

カトリーナは店を爆破されたものの店にいる様子や巻き込まれた様子は見受けられない。

初芽は海に投げ込まれ爆弾を投げ込まれたものの死体が浮いて来ていない。木っ端微塵になったとしても何らかの肉片や服の切れ端は浮いてくるはずである。

命は言うまでもない。

個人的にはダブルクロスであって欲しいけれど、なにぶん脚本がゆゆゆのタカヒロ氏だったりするので虚淵玄奈須きのこ並に信用がならない。ちなみに裏切り者のシルエットの獲物は刀に見えたがどうなんだろうか。

雪は死んだと言われているが雪の師匠である長穂のように自爆した訳ではないし、二重スパイスの副作用とか諸々気になるので生きていると思いたい。というか生きていてもらわなければ困る。推しがピンチ。

 

さて、ある意味でこの考察が無駄になって欲しいと考えるのが活字中毒の性である。

 

伏線とか考察とは

こうやって推理小説の犯人を推測したり、わずかな情報から先を予測するのは楽しいことでもある。

だが、あまりにもそれをしすぎた結果かつてはそうやって答えを当てることに喜びを見いだしていたぼくはいつしかある種の退屈さを覚えてしまったのだ。

映画で次を予測できるシナリオほど面白くないように(インデペンデンス・デイランボーといった王道、ボヘミアン・ラプソディのような実際の人物をモデルにしたものとは違う)、それを意図的に配置したのなら全く構わないのだが、それを大真面目にやっているのが果てしなく退屈なのだ。

 

リリスパに限って言うなら、最初のももの「相手を舐めることにより心理状態や体のコンディションがわかる」能力は確実に捜査に関わるだろうし、なんなら確実に多くの人がブチャラティかよと思ったはずである。

雪の死亡フラグ乱立は別にしても、登場した時から雪が醸し出していた雰囲気。それは、巴マミや日曜朝のプリがキュアキュア系のアニメにおける先輩キャラが出すものだ。

そして、展開(と言えばそれで終わりになってしまうが)通りに進んでいく。

であるならば、この先の展開はある程度多くの人が予想し得るものでありうる。

 

鬱。

そんなわけで鬱だ。勉強が手につかない。

ということで同じく今期の沼倉愛美アニメ(ではない)であるウザメイを見た。

なんだこれは。

ロリぺドのメイドがロシアロリに襲いかかりながら世話をするというなんともアホみたいな設定だが、なるほどギャグの割に面白い。というかメイドのつばめもロリのミーシャも過去が重い。

この辺はまぁまた今度語ることにする。とりあえず今はリリスパショックを生き残るだけで精一杯だ。マミさんの時でもこうはならなかった。なぜだ。

 

幸福度

ドキュメンタリー

というものは、なんのために放送されるのだろうか。

事実、ノンフィクション。記録実録を伝えるため?残すため?

面白そうな命題、夜のTV番組における意義なんて考えてみるのもいいのだけれど、それはさておいて、少し考えさせられるドキュメンタリーを見たので久しぶりに。

余命宣告

生命の終わりにはいくつかの選択肢がある。

終わるとわかっていて終わる死、ある時突然にふりかかり終わる死、誰かによってもたらされ終わる死、そして自分で終わらせる死。

今回見たのは余命半年と宣告された方のドキュメンタリーだったのだけれど、ぼくはそれを見てある台詞を思い出していた。

それは、スペースオペラ銀河英雄伝説」に出てくるナイトハルト・ミュラーが同じく銀河英雄伝説ユリアン・ミンツに語った言葉である。

 

念の為、ネタバレ注意!

それは、不敗の名将ヤン・ウェンリーが暗殺者の凶弾に倒れてから一年後、宇宙暦801年新帝国暦3年のことである。

皇帝ラインハルト不予の報を受け講和に至ったローエングラム朝銀河帝国とイゼルローン共和政府。

皇帝が最早長くないことを医師に告げられたミュラーユリアンにこう言った。

 

 「ヘル・ミンツ、卿と私とは、どちらが幸福なのだろうか。卿らはヤン・ウェンリー元帥が亡くなるまで、そのことを知らなかった。吾々は、陛下が亡くなるについて、心の準備をする期間をあたえられた。

 だが、卿らは哀しみがスタート地点から始まったのに、吾々はまずゴールを迎えて、それからまた心の飢えをみたすために出発しなくてはならない。生き残った者は・・・」

 

あえて述語を省略したミュラーの心は、ユリアンの心に共鳴現象を生じた。そうだ、生き残った者にとって、旅は続く。

いつか死者たちと合流する日まで。飛ぶことを許されず、その日まで歩きつづけなくてはならないのだ。

 

ぼくには母がいない。物心つくかつかないかの頃に、癌で亡くした。

声も、顔も、温もりも思い出せない母の、癌による死。

いつも、おぼろげな記憶の靄の奥に、もっと生きたいと泣いていた母の姿がうっすらと見える。

ぼくの記憶は音声ではなく、文字と絵によって残されている。頭の中に、こんなことを言っていた、というだけの記憶。

 

この前、伊藤計劃さんの文章を引用してフィクションを残すことの意味を書いたと思うのだけれど、きっとそれと似たようなことなのだろう。

名前も知らないだれかの、記憶の片隅にでも残りたい。そう叫んでいるのではないか。

ドキュメンタリーを見る度にぼくはそう思ってしまう。

全くそういう意思はないにしても。

 

ボヘミアン・ラプソディで描かれたフレディ・マーキュリーの伝説。

アイルトン・セナで語られるセナの葛藤。

This is ITで映されるマイケル・ジャクソンの歌声。

 

本人が作ったものではなくとも、本人が記憶に残り、記録に残り続ける。

ドキュメンタリーとは記録を記憶に残すためのツールである。

ぼくは、フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックを見た時、思わず声を出して感嘆してしまった。

残されるべき誰かの物語を語る。それがドキュメンタリーの意義だ。

ぼくは、そう思う。

 

QUEEN

最近、QUEENにどハマりしている。というのも、父がボヘミアン・ラプソディの影響でCDやらライブ映像やらを大量に垂れ流しているからで、ぼくの耳にもそれが入ってきてしまったからだ。

 

一方、ぼくはアイドルマスターが大好きなのだけれど、なかでも響(cv:沼倉愛美)が大好きなもので、ソシャゲのイベントを見返していた。そんな中に、アイドルとして初心を思い出すという場面があった。

アイドルになったのは、ファンに楽しさを、嬉しさを、元気を、感動を届けるため。手段と目的の逆転に気づいた。そんな話だった。

その中で、伝説を目指して・・・というセリフがあったのだけれども、アイドルとしての伝説とは一体なんだろうか、と考えた時に、ひとつの最適解が思い浮かんだ。

近藤真彦西城秀樹モー娘。やAKBではない。

 

伝説。それこそが、QUEEN

 

85年のリオ、そしてウェンブリー。

全世界を揺るがす偶像としてのQUEENは、まさに彼女たちが目指すアイドルの形。

会場と一体になったRADIO GA GAやWe will rock youの迫力。

フレディ・マーキュリーのパフォーマンスは、30余年の時を超えボヘミアン・ラプソディのタイトルの元に再び脚光を浴びる。

これこそが、最高到達点ではないだろうか。

世界中に歌とパフォーマンスを届け、新しいことに挑戦し続け、死後も語り継がれる。

We will rock youを聞いた事がない人が果たしてどれだけいるだろうか。

We are the Championの旋律を聞いたことの無い人がどれだけいるだろうか。

ボヘミアン・ラプソディの公開により、さらにその伝説は不動のものとなる。

プライベート・ライアンブラックホーク・ダウンが21世紀の戦争映画を規定したように。

インディ・ジョーンズや007、ターミネーターHalloweenが不朽の名作として語り継がれるように。

音楽CDや映画は、YouTubeや誰かの持つデータドライヴにあるよりもパブリックなメディアとして世に残り続ける。

もしも、彼女たちがその域にたどり着いたら、ぼくはきっとこう言うだろう。

 

「アイドルって凄いんだよ」